ルーフの森

特に定まっていないブログ

「神」は「0」なのか

「なんだか、前にはよくわかんなかった神って奴の存在も近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ。
もしかしたらだけどさ、数字の0に似た概念なんじゃないかって。
要するに体系を体系たらしめるために要請される意味の不在を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのが0.どうかな?」

タチコマ ―攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

 

 さっき攻殻SACのDVDを視聴していると上の台詞があったので、そのことをあれこれ考えていたのだが、特に理由もなく、以下に文章で表してみようと思う。

 

 個人的な意見だが、結論から言えば、「神」も「0」も体系の矛盾を補強するために生み出された概念なのだが、「神」はその存在に対する価値意識(いい言葉が発掘できない)が1つに定まらないという点に最大の違いがあるように思われる。この場合の「神」はどちらかというと「真理」や「不可知の法則」というべきな気がするが。

 

 「神」といえば、多神教における神と一神教における神は役割が違って、多神教の神は自然という不条理な外部(内部)の裏に存在する見えない法則の擬人化であり、一神教のそれは、極めて簡潔に言えば人間の存在理由であり、人間の「神」である、と思う(自信薄)。この辺りの話は自然宗教創唱宗教の差と考えていいだろうし、「なる」神と「つくる」神の差といっていいだろう。阿満利麿先生の本に詳しい内容があった気がする。

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

 

 話が逸れたけど、要は我々の言う「神」は「0」という体系の補強材(この書き方は誰かに怒られる気がする)以上の役割を持っているのであり、それゆえに今日も個人レベルでその存在が疑問視される事態が発生しているのである(組織的に質疑がなされてはいないという意味です)。それはつまり、数という領域内ですべてが完結してしまう世界内で獲得された概念と比べ、「神」は現実世界で生まれたのだから、問題の複雑さが違うよ!ということである。逆に言えばそれだけでしかないのかも知れないが。そもそもこの「神」とやらは、長年人間の存在理由として活躍してきたわけで、人間の尊厳の裏づけとして獅子奮迅の働きをしてきたのだから、やっぱり「0」なのかもしれない。なかなか上手いことを言わせるもんだ。結構前の作品だが、製作者はどこからこの理論を引っ張って、ないし開発したのだろう。

 

 しかし理屈的には「0」で殆ど問題なさそうだが、実際それが「0」の役割以上の務めを果たしてきた(恩寵の論争や紛争の背景)のを考えるに、やはり「0」とは違うのだろうなあと思わざるをえないのである。

 

そういえば、「0」の起源らしい古代インドの歴史的背景を一応調べてみたが、ここでいう「0」とあまり関係なさそうだったので言及はしないことにした(仏教的に理想とする境地という概念であったため)。

 

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