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読書記録:『反哲学入門』 木田元

『反哲学入門』 木田元

 

 本書は端的に言えば、「哲学」を説明するために「反哲学」を用いた書となるだろう。勿論、本のタイトルのように「反哲学」について紹介してもいるが、単語の成り立ちからも予想が付くように、「反哲学」とは「哲学」を批判する形で生まれた語であるから、必然「哲学」についての説明が大半なのである。しかしながら、ここでいう「哲学」とは、普段我々(一般の方という意味)が想像するような哲学とは少し趣が違い、具体的にはソクラテスからニーチェへの続く西洋固有のものの考え方のことを指す。どこが固有かというと、存在というものを「創られたもの」と「創る原理」に分裂させ、後者をひたすら求めるということである。そして、「反哲学」とは、その姿勢に真っ向から反発する考え方であり、「哲学」以前の思想形態への回帰を目論む思想といえる(と解釈した)。

 

 以下、具体的な内容に触れていく。著者木田元先生はハイデッガーに代表する現象学の日本国内の大権威であり、本書も先生の愛するハイデッガーの思想を下地においた内容となっている。

 先ず最初に、著者は、「哲学」とは西洋固有の不自然な思想形態であり、長く自然とともに生きてきた日本人にとって要領を得ないのは当たり前のことであると説く。その後、そもそも「哲学」が出自が屈折していることを指摘し、「哲学」が古代ギリシャから近代末までのものであり、それ以後の思想はそれまでの「哲学」と一緒にするのはおかしいと主張する。そうして「哲学」の歴史を大まかに辿っていく。

 「哲学」の歴史はソクラテスから始まるという。ソクラテス以前にも思索する者はいたが、彼らは自然そのものを思索するものであり、ソクラテスは知を追求する点で異なるようだ。このソクラテスの姿勢である「知を愛する」というギリシャ語が、今日のphilosophy、すなわち「哲学」に繋がっていく。ところで、ソクラテスは専ら人間が無知であるということを、その問答法を以って触れ回っていただけであるが、弟子であるプラトンイデアという自然を超越した原理を考え出した。これが「哲学」が生まれた決定的な契機となる。そして、プラトンの弟子であるアリストテレスは、師の理論をギリシャの素朴な自然観と上手く融和させながら、自然を超越する観念を継承していった。こちらも同じく「哲学」の源流である。

 さて、古代ギリシャで芽吹いてしまった「哲学」は、やがてキリスト教の観念にも吸収されていく(とはいえ、プラトンイデア論もユダヤ一神教の影響を受けたと著者は述べているが)。それが教父神学における「恩寵」の観念である。この「恩寵」とは、唯一絶対である神が、現在を背負った人間を神の摂理が支配する「神の国」の高みに押し上げるために与える、神のやさしさであり、その「恩寵」が如何なるもので、どのように授けられるのかが当時のキリスト教会において重大なことであった。というのも、当時の西洋世界は古代ローマ帝国が覇権を握っていたのだが、その帝国でキリスト教が国教となり、急増する信徒に対して明確な教義の整備が急がれたからである。すなわち「恩寵」とはキリスト教会の正統教義であったのだが、実はこの観念にはプラトンイデアの考えが色濃く表れていると著者は指摘する。それはなぜかというと、この「恩寵」の論理に存在する、神の世界と人間の世界の対立構図が、そのままプラトンイデアと現象世界の対立に置き換えがきくのである。そもそも、「恩寵」の理論において正統教義と認められたアウグスティヌスは、もともと異教徒の信徒であり、古代ギリシャ哲学の研究に関わっていた過去を持つとされる。また一方で、この「恩寵」の理論を発展させ、人間が不完全ながらも神の摂理を理解しようとする理性をもつと解釈した、これまた有名なキリスト者トマス・アクィナスアリストテレス主義であったという。更に、こうした神の摂理を根拠にしながら「理性」の優位性を一層明確にした哲学者としてデカルトが来るのだという。

 時代が下り、神の摂理が「哲学」から後退し、「理性」がその役を担うようになった啓蒙の時代も、同じくプラトン主義・アリストテレス主義が根幹にすえられていた。具体的にはカント、そしてヘーゲルであろう。カントは『純粋理性批判』で世界には「物自体の世界」があるが、認識できるものしか思考できない人間にとっては認識による「現象の世界」しか思考出来ない。しかし人間は道徳に関しては、「理性」でもって先天的(アプリオリ)に「物自体の世界」を認識でき、ゆえにその点においては超越的法則を実践せよと説く。これがいわゆる定言命法のロジックなのだろう。翻ってヘーゲルは、カントが提唱した対立を合一させつつ、「精神」が「絶対精神」という要は真理に限りなく近づいていく過程を論証している。これら近代の「哲学」にも紛れもなく現象(自然)と超越的原理の対立が見受けられる。

 こうした「哲学」の系譜に真っ向から反発したのが近代末期、現代の哲学者(?)であり、その代表としてニーチェハイデッガーが挙げられている。ニーチェは初め古代文献学者であったが、古代ギリシャの思想に触れる中で、当時の西洋世界の閉塞感の根源がキリスト教的観念であり、ひいてはプラトンアリストテレスに由来する「哲学」的思考であると発見する。そして彼は、それまでのすべての価値を取り去り、ニヒリズムの先に生そのものを思考すべきであると説くのである。「力への意志」、「永劫回帰」はそのための理論である。ニーチェの指摘を受け、ハイデッガーはこれまでの「哲学」が同じひとつの観点から創られてきたことを示し、それの理論を超克し、ソクラテス以前の思索者に回帰することを主張する。本書の最後は、そんなハイデッガーの人生と思想で締めくくられている。

 

 本書の中で個人的に興味深かった点は、ソクラテスについての記述である。私のソクラテス理解が貧弱ということもあろうが、著者がソクラテスを偏屈の不気味な人物として取り上げているのは新鮮であった。特に72頁にある「”ああ、きみもわからないのか。おれもわからない。つまり、そういうことだ”」というソクラテスの台詞がよい。ただ謎をかけにくるだけの男である。こわい。

 他に気になる指摘としては、カントにおける理性は我々が一般に思う理性とは意を異なるということである。これ以外にも、「哲学」においては、日常使う語が別の意味で使われるものがあり、専らそれらは真理やら本質やら神やらといったイデア的な意味を付与されることが多いようだ。例えばヘーゲルの「精神」、「絶対精神」、「世界精神」は、現象(これもヘーゲルの文脈では意味が異なる)を決定する超越的原理をさまざまな水準で言い換えたものであろう。結局二項対立に還元される。

 本書は私にとって、実に刺激的であったが、その内容を一読で把握するのは不可能だろう。また暇を見て再読したい。とはいえ、本書のロジックがどこまで筋が通っているか。その点も自分で検証していきたいというものだ。

 

 最後に。著者である木田元先生は今年の8月にお亡くなりなった。先生の死を悼みます。

反哲学入門 (新潮文庫)

「神」は「0」なのか

「なんだか、前にはよくわかんなかった神って奴の存在も近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ。
もしかしたらだけどさ、数字の0に似た概念なんじゃないかって。
要するに体系を体系たらしめるために要請される意味の不在を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのが0.どうかな?」

タチコマ ―攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

 

 さっき攻殻SACのDVDを視聴していると上の台詞があったので、そのことをあれこれ考えていたのだが、特に理由もなく、以下に文章で表してみようと思う。

 

 個人的な意見だが、結論から言えば、「神」も「0」も体系の矛盾を補強するために生み出された概念なのだが、「神」はその存在に対する価値意識(いい言葉が発掘できない)が1つに定まらないという点に最大の違いがあるように思われる。この場合の「神」はどちらかというと「真理」や「不可知の法則」というべきな気がするが。

 

 「神」といえば、多神教における神と一神教における神は役割が違って、多神教の神は自然という不条理な外部(内部)の裏に存在する見えない法則の擬人化であり、一神教のそれは、極めて簡潔に言えば人間の存在理由であり、人間の「神」である、と思う(自信薄)。この辺りの話は自然宗教創唱宗教の差と考えていいだろうし、「なる」神と「つくる」神の差といっていいだろう。阿満利麿先生の本に詳しい内容があった気がする。

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

 

 話が逸れたけど、要は我々の言う「神」は「0」という体系の補強材(この書き方は誰かに怒られる気がする)以上の役割を持っているのであり、それゆえに今日も個人レベルでその存在が疑問視される事態が発生しているのである(組織的に質疑がなされてはいないという意味です)。それはつまり、数という領域内ですべてが完結してしまう世界内で獲得された概念と比べ、「神」は現実世界で生まれたのだから、問題の複雑さが違うよ!ということである。逆に言えばそれだけでしかないのかも知れないが。そもそもこの「神」とやらは、長年人間の存在理由として活躍してきたわけで、人間の尊厳の裏づけとして獅子奮迅の働きをしてきたのだから、やっぱり「0」なのかもしれない。なかなか上手いことを言わせるもんだ。結構前の作品だが、製作者はどこからこの理論を引っ張って、ないし開発したのだろう。

 

 しかし理屈的には「0」で殆ど問題なさそうだが、実際それが「0」の役割以上の務めを果たしてきた(恩寵の論争や紛争の背景)のを考えるに、やはり「0」とは違うのだろうなあと思わざるをえないのである。

 

そういえば、「0」の起源らしい古代インドの歴史的背景を一応調べてみたが、ここでいう「0」とあまり関係なさそうだったので言及はしないことにした(仏教的に理想とする境地という概念であったため)。

 

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読書記録:『あなたはコンピュータを理解していますか?』 梅津信幸

『あなたはコンピュータを理解していますか?』 梅津信幸

 タイトルにこそ「コンピュータ」と銘打っているものの、内容は情報学の基礎的な事項が大半を占めた。というのも、機械としてのコンピュータよりも、その背後にある理論や概念を説明することに意識を置いているからだ。そういった意味では、コンピュータについて詳しく知りたいと思ってこの書を取ると、面食らってしまうかもしれない。また、概念を専門外の人にできる限り理解してもらおうと、豊富に比喩を用いているが、それが返って読者の退屈を誘っているかもしれない。実際、比喩と概念の実態を対応させながら本書を読んでいくと、結構理解に躓くことが多かった。とすると、あまり深く考えず、流れるように読むのが、門外漢の定石かもしれない。

 

 では、具体的には何が説明されているか。小生はブログのタイトルにも書かれているように門外漢なので、詳しい内容は理解できていないが、極めて重要だと思われる概念は「情報」と「データ」だと思われる。ここでいう「情報」とは、情報の中にある識者にとって有益な情報のことであり、情報内の本質的要素といえるものだ。本書の中にある例を引用すれば、それは味噌汁の中にある味噌や味の素といった部分のことである。一方の「データ」とは、いわゆる情報という煩雑なもので、中にはゴミも含まれている。本書内では器という表現も用いられた。この「データ」の中にどれだけ「情報」が入っているかを表す数値が「エントロピー」であり、優れた情報伝達媒介物ほど「エントロピー」が高いと考えていいだろう(と理解したが、誤りかもしれない)。

 このほかにも、「チャネル」や「有限オートマトン」といった情報科学の領域において重要な概念が多数展開されたが、これらについては説明はあまりしないでおこう(理解が正しいかわからないし)。しかしながら、一応それらの概念に触れておくとするなら、「チャネル」とは情報を伝達するパイプであり、「有限オートマトン」とはコンピュータの作業のプロセスを双六的な、マスと線で結んだような図で表すものだろう。「チャネル」については、それぞれの伝達手段によって「エントロピー」の量が違うため、もとの「情報」のうち一体いくつを伝えられるのかという問題があることがわかる。これは、更にいうと、伝達媒体から情報を受け取るという過程おいても同様の問題があり、たとえば、文字という媒体から脳はどれだけの「情報」を抽出できるのか、ということである(間違ってそう)。「有限オートマトン」は、これからアルゴリズムという概念へ発展するのかなあ、という印象を受けた。

 

 最後に、この本の巻末には、著者の読書観とこれからこの分野についてより深く知りたい人向けの参考文献が付けられている。著者の読書観、同じような理論について解説してある書は何冊も読んだほうがいい、というのは一定の価値があるが、一冊の本を何回も読むことにも大きな意味があるだろう。少なくとも、受験を乗り越えてきた(失敗しているが)身としては、同じ書を徹底的に理解するよう努める能力も、無視できないものだと思える。

 

あなたはコンピュータを理解していますか? 10年後、20年後まで必ず役立つ根っこの部分がきっちりわかる! (サイエンス・アイ新書)